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なんだか面白そうなので、買い物にまつわる思い出を振り返ってみる(反省はしない)
例えば洋服を見ていて、「あ、これいいな」って思いながらも通り過ぎると大体次の周回ではなくなっていたりする。
すごく悔しい。
別に手に持ったからって絶対買わなければいけないわけではないのでキープすればいいものを。
でも、手に持った時点でそれは買われるのだ。
いいなと思って手に持って一周。
鏡の前で見てみたりして一周。
試着室を探して一周。
そのままレジというゴールに向かって一周。
試着室というチェックポイントを通過してからのゴールならまだいい。
感覚だけで買って何度失敗しているか。
けれどやめられない。
感覚だけでする買い物のなんと気持ちのいいことか。
失敗という結果はすぐに忘れる。
気持ちのいい買い物は癖になる。
気持ちのいい買い物といえば…今までの中でダントツ一番なのが
記憶にはないんだけど、泥酔状態で値切って買ったメロンだ。
駅近くの飲み屋街を歩いていると、いきなり八百屋と名乗る人間や
お菓子の配達途中だというような人間に出会う確率が高い。
台車に山積みの段ボール…そのなかにリンゴとかみかんだとか季節の果物。
自分は八百屋だと言い張り、
「配達の品が余ってしまったから安くするので買いませんか?」
みたいな文句で近寄ってくる。
だいたい旬の果物を行きずりの人間に売ろうとする八百屋がいるだろうか。
農家の人が汗水たらして作り上げたものを盗ってきて売っているんじゃないかと私はいつも疑惑の目を向けている。
私が買ったメロンは、無差別に話しかけて売りつけるというタイプのものではなかった。
終電間際、駅の入り口前に煌々と光るメロンピラミッド。
軽トラの荷台にシャンパンタワーも真っ青な、輝くメロンピラミッド。
通りかかる酔っ払いに声をかけるでもなく、ただそこに輝くメロンピラミッド。
まっすぐ歩いているつもりがやっとの私は、大好きなメロンを見るなり気付けばその軽トラに向かっていた(と思う)。
ピラミッドの頂点にはTのついたメロン。
手書きの値札には500円!!!!と書かれていた。
(たしか)私は頂点のメロンを指さしながら500円を用意したが店番の人間は無情にも3500円を要求してきた。
しかしメロン好きの私は知っていた。
そのメロンがいくらT付きだったとしても不当な金額であると。
私は据わった眼とまわっていない口で値切り交渉をした。
高い。でもこのメロンが食べたい。(私の熱意、プライスレス)
相手も場所や時間で商売相手がどんな奴かなんてわかりきっているし慣れっこだろう。
それに所詮酔っ払い。
明日になれば手元にはメロンが残り記憶は消えているだろうぐらいの気持ちのはずだ。
まったくその通りだ。
その夜私は泥酔し、メロンを買った。
それを持って電車に乗り当時の彼氏の家に帰った。
翌朝目覚めると、酒臭い女がメロンを抱いて寝ていた。
輝くメロンタワーは覚えていたし、値切ったことも覚えていた。
しかし肝心のいくら値切っていくらで買ったのかが思い出せない。
そこの記憶がスポーンと抜けて、私の記憶は交渉から一気に商品受け取り場面なのだ。
財布の中身などおぼえているわけもなく、手元に残ったのはメロン。
私は満足だった。
酔っていても値切った自分の根性(結果は謎のまま)と、手放さずに持ってきたこと。
味がイマイチ、イマニ、イマサンだったとしてもだ。
感覚と本能でした買い物。
忘れることのできない気持ちのいい買い物だった。
感覚でする気持ちのいい買い物。
最近はもっぱらネットショッピングだ。
好きなものを好きなだけじっくり探せる。
見えない在庫への適度な緊張感。
サービスという商品さえも買える気持ちよさ。
泥酔状態で購入ボタンを押しても、安心。
決済通知のメールと、マイページの購入履歴が記憶よりも確実な証拠を残す。
二日酔いの頭にさらに打撃を加える現実。
それでも感覚的快楽ショッピングはやめられない…。