グリーフケア
グリーフケアとは死別や喪失を体験した人間の心に起きる悲嘆や、それを乗り越えようと葛藤するときにさりげなく寄り添い支援をするということ…で、いいのかなぁ?
今日はどうも、なんだかとっても心が辛い。しんどい。
その原因を考えてみよう。
その前に、このグリーフケアについて…
母親に寄り添う前に自分自身のケアに役立てたいと思うだけど、私の中の問題がなんなのか。
①悲しみの現在地
ばあちゃんの死について、受け入れきれているのだろうか。
地元のスーパーなどで、同じぐらいのおばあさんを見るとばあちゃんを重ねるというか、ばあちゃんを探してしまう。そうすることで「いない」ことを確認して涙が出る。寂しさや恋しさに囚われて動けないわけではない。悲しみの裏で、大切な思い出として温かな感情を呼び起こすこともできる。
ふと、悲しみを叫びたくなる時がある。
涙を流して心のままにこの苦しさをまき散らしたいのだけれど…。
それがうまくできていないと感じている。
蓋をしている状態かもしれない。いや、空っぽにしたつもりだったけど、
まだ足りていないのかもしれない。
悲しみの壺の底にまだ残っているのかもしれない。
ひっくり返して一度に流してしまえれば御の字。
浅ければそれを掻きだすことは簡単かもしれないけど、
手では届かないような深い部分に残ったものを後から処理するのはなかなか難しい。
悲しみは悲しみ、この感情は当然の反応だし正常なこと。
なんだけど、だけど(笑)
②悲しみの種
残ったじいちゃんの現状があまり良くないことが、今現在の私の心の戸惑いの最大の要因だろう。
・腹膜炎がわかり入院と治療が長引くこと。
・その治療の為に管が取れないから飲めず食えず、体の自由も制限された状態であること。
・ばあちゃんの死について
・本家の家族と我ら母娘の温度差
現在週末は見舞いへ行っている。
日ごとに、顔を見るたびにしっかりしてきているように感じられてうれしい。
けれど発熱していたり、治療の進捗が悪い気がして不安ばかりが募る。
鼻から管を入れているために、口呼吸をしてからっからに乾いてしまっている口内。
そのために、何を言っているのか聞き取れず満足に会話ができない。
「しっかりしている」ように見える(またはそう思いたい)が、ちぐはぐなことを言ったりしてそれが私自身の中でショックな出来事のようだ。
そしてばあちゃんが死んだことを隠す、触れないという行為もストレスだ。
隠すことの罪悪感、真実を伝えることへの残酷さや辛さもある。
しかしこの真実を伝えるこいう一番大変なことは母がやった。
彼女も凄くつらかったに違いない。
彼女の辛さを受け止められない自分への怒りなどの思いもある。
それから本家の家族について…猫たちの世話をしてもらえていないこと、他人事なこと。事故の責任を、投げつけたくなる。
無関心だからこうなったんだよ!って。
でも本当は違うことも知っているし、離れて暮らしている私たちではわからないこともいっぱいあるはず。一番、大きな種は「元通りには決してならないこと」を望んでいることだと思う。
これを前向きに考えられるようにならないといつまでも辛いだろうな。
③自分が望む着地点はなんなのか
・じいちゃんに元気になってもらって、家に帰ってきてほしい。
・田舎の家に行って、ホッとしたい。
・ばあちゃんの事を思い出してほっこりできるようになりたい。
・ほっこり会話ができるようになりたい。
通り過ぎたころに振り返ることができるように。
悲しみより、いとおしさが勝つように。
④今日のこの激しい落ち込み
きっと、昨日母から聞いたじいちゃんの事故当時の記憶の話が引き金だろう。
肋骨が肝臓を突き抜いて血管に達したというばあちゃんの診断結果。
ほぼ即死。
なにもわからずに意識もなく逝ってくれていればいいと思っていた。
でもじいちゃんの話では、じいちゃんの呼びかけに「腹が痛い」と答えたそうだ。
その後がっくりとして答えなくなったと。
「あぁ、先に逝かれてしまった」ってその時思ったんだってさ。
でもその後じいちゃんは病院で看護師にばあちゃんのことをきいたら(前もって打ち合わせしていた通り)
他の病院に運ばれたとだけ聞いて、助かったと安心してしまった。
ばあちゃん意識があったんだって思ったら、やるせない気持ちになってしまった。
オーバーリアクションの人だったから、きっと叫んだに違いないし怖かっただろうなっておもってはいたけど、やっぱりこうやって真実を突き付けられると…
と、いってもじいちゃんの話だってどこまでが本当なのかなんてわからないけど…。
悔しいような、ぶつけようのない怒りのような気持ちの行き所がないのだ。
まとめようがなくなってしまったが…次はこれを読み返して現状と改善点、気持ちの再構築の手段について検討しませう。